interview & text by Asako Tsurusaki
1993年の夏。母親を亡くした少女フリダは、住み慣れた大都市バルセロナから田舎町の叔父叔母の元で暮らすことになる。若い叔父叔母と幼い従姉妹のアナは、家族の一員として彼女を暖かく受け入れるが、フリダが新しい家族に馴染むのにはとても時間がかかり…。母親の死を乗り越える強さ、新しい家族を築く勇気、そして自分の変化を受け入れる少女と彼女を育む家族たちの愛情、全てが優しく突き刺さる。そんな少女の特別な”ひと夏”を描くのは、スペインの新星、カルラ・シモン。自身の少女時代に起こった瞬間を、美しいカタルーニャの風景を舞台にあたたかく繊細に描く。
この作品は監督の子ども時代をもとにされていると伺っています。この時間を選び描こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
子供にとって両親を亡くすというのは非常にショックな、人生で起こりうる最悪の事態です。ですから一番ドラマとして面白い題材であると思い、この時間を選びました。母がまだ生きている時のことも描こうと思ったんですが、子供の記憶というのはとても選択的なもので、嫌なことを忘れてしまって、良いことだけは覚えているんです。だから母が亡くなった瞬間よりも、その後の新しい環境に慣れていく、子供の適応能力のような時代を選びました。
本作は、どれくらいまで監督の実体験だったのでしょうか。
病気や叔母さんや祖父母が面倒をみていて、その後に叔父叔母の家に住むようになったなど、脚本にあることは全て私の実話です。ただ映画のシーンを作るうえでフィクションのシーンも作っています。
この作品は主人公のフリダに目線を落としたストーリーテリングだったところが、とても素晴らしく感じました。引越しのシーンや、叔父叔母のマルガとエステバが喧嘩しているのを外から眺めているシーンなど、第三者ではなく、子供の低い視線で描かれています。
子供の視線から物語を語るというのは、私にとって大きな挑戦でした。この映画は、ハンディカメラで子供の視線の高さに合わせて撮っています。
最初にこの映画を作ろうと思ったきっかけは、思い出を元にしたものにしようという試みでした。でも想い出というものは詩のようにぼんやりとしたものだったんです。子供のその時の感情、カメラの前で起こる感情というものを撮るために、非常に苦労しました。脚本を書く段階から映画のプロセスを通して、様々な人との議論をして、こだわりました。子供と一緒に仕事をしている時によく観察することで、フリダ役のライアとアナ役のパウラ、二人の子役が持っている子供らしさというものを、映画に貢献してもらったということもあります。カメラの前で彼女たちがやってくれるということを、取り入れたりもしたんです。
ライアとパウラをそれぞれの役に起用した一番のポイント、彼女たちに期待したのはそれぞれどんなところだったのでしょうか。
遊びのシーンは彼女たちらしく、より自由に振舞ってもらうようにしました。脚本通りのセリフを言ってもらいたいシーンになると、私がテイクの中で何度もセリフを繰り返して、それを繰り返してもらったり。それ以外のシーンは、大体「こんなことを言って」と伝えて、脚本の言葉のままでなく、彼女たち自身の子供らしい言葉で言ってもらうようにしていました。常に同じセリフを言う必要は無いと考えていたからです。今回私たちは撮影自体よりも、撮影の前の準備期間というところに時間をかけました。カメラの前で、脚本通りの家族構成が見えるようになるための準備期間です。キャスティングの段階でも、子役の二人については、登場人物に家庭環境が似ている子供達であるということを基準に選びました。ライアの場合はフリダに、パウラの場合もアナに性格が似ていて、演じなくても本人らしく振舞っていればフリダやアナに見えるという子供でした。また彼女たちには大人の俳優たちと一緒に長い時間居てもらうことで、自然な本当の家族に感じてもらい、家族を形成していくというところにも時間をかけました。
フリダとアナの対比も素晴らしかったです。フリダは孤独な目をしているのに対して、家族の愛に満たされているライアは純粋な目をしています。また二人が遊んでいるシーンからは、これまで育ってきた家庭や環境の違い、スペインの大都会バルセロナとカタルーニャ郊外の対比も感じられました。
フリダ役の子供を探す時、街の子供を選ぶということははっきりしていたので、バルセロナ近くの学校から選び、キャスティングは学校で行いました。ライアがキャスティングに来た時、彼女が芝を踏んで「嫌だ!」と言ったんです。まさに私が小さい頃そういう子供だったので、「この子は完璧」と思いました(笑)。一方アナ役の子供は、街と田舎の両方の学校を対象に探しました。アナ役のパウラは、実際にはバルセロナの郊外ではあるものの街の出身ですが、ちょっと田舎の方にも行ったりしていて、田舎のことにも慣れている子供でした。彼女たちの家族構成はというと、パウラの方は伝統的な家族構成で、二人のお兄さんがいつも一緒に遊んでくれたりすごいねと褒められたり、愛されている子供でした。一方でライアは家族構成が複雑で、あまり伝統的な家族スタイルではありません。そういった実際の家族構成も、ライアとパウラはすごく異なる家族構成に育っていて、それが映画にも自然に伝わっていると思います。またキャスティングをするときに重要だったのが、二人の関係性でした。キャスティングのステップのひとつで、ライアとパウラの関係性も見るために二人で遊ばせてみたんです。ライアのほうが年長ということもあり、嫉妬心みたいなものが見られました。それはまさに脚本通りの姉妹関係だなと思い、それも基準にして二人に選びました。
キャスティング時の嫉妬心とはどういうときに見られたのですか?
二人を遊ばせる中で、母親役の女優さんが携帯電話を無くして、どっちが先に探せるかを競い、ライバル心を刺激するような遊びをしたんです。そうしたらパウラが先に見つけて、ライアがちょっと怒ったんですよ(笑)。
フリダ自身の遊び方や祖父母・叔父叔母たちの関係性から、郊外に住むマルガとエステバ夫婦との心理的距離感、目に見えない意識の溝をとても感じました。
映画の中には表れませんが、フリダは設定として、お母さんが病気で入院していたという時間を過ごしていました。ロラという伯母さんが彼女の面倒をよく見ていて、祖父母の家でフリダと一緒に寝ていました。フリダは「可哀想な子」ということで、限度がないくらい甘やかされていた状態でした。彼女には両親がいませんから、それ以外の家族がみんなフリダの両親の役割をしていたんです。一方、エステバとマルガは田舎の村に住んでいました。実はフリダが田舎で叔父叔母と住むようになるというのは、実母の決断だったんです。それはこの病気を取り巻く今の環境を変えて、厳しくちゃんとした叔父叔母の生活のもとで過ごしたほうがいいんじゃないかという、母親の意思でした。そのことは母親が遺した手紙に書いてあったんです。ロラと祖父母は今までフリダと一緒に過ごしていたので、母親が亡くなった後も彼女と一緒に居られると思っていたので、がっかりしたと思います。フリダもそうです。両者ともすごくがっかりして、お互いに会いたく、寂しく思っていたと思います。でもフリダは新しい環境に適応して、新しい家族を育んでいく必要があったのだと思います。だから母親は、一番信頼していた姉弟の夫婦にフリダを預けたんです。そしてこれは、正しい決断でした。
フリダの母親を襲ったエイズについての描写について伺います。この物語の核となる「家族というもの」をつなぐ「血液」が、皮肉にもフリダを孤独な存在にしてしまいます。それは母親の死を招くだけではなく、フリダが誰かと一緒にアイスも舐めれず、ちょっとした擦り傷だけで人が離れてしまうなど、様々な負の要素が彼女を取り巻きます。
いま仰った、擦り傷の場面やアイスクリームは作り話です。私は当時、自分の両親がエイズで死んだということを知りませんでした。12歳になって初めて、養子にしてくれた両親から聞きました。というのも私たちが住んでいたのはとても田舎で、エイズはまだ当時新しい病気でしたから、実の両親がエイズで亡くなったと聞いたらみんなびっくりして衝撃をうけるだろうと思ったからです。新しい両親は私が自分で人に決められる年齢まで、秘密にしていてくれました。実際には、私は実母から母乳を飲んでおらず、9ヶ月のときに受けたエイズ検査で、かかっていないということはわかっていました。ただその後、念のために血液検査を続けていて、病院が大嫌いだったということは覚えています。田舎の方に移った時に検査をしてくれた新しいお医者さんが、エイズの疑いを持っていたことも覚えています。実際には病気にかかっていないということをみんな知ってはいましたが、そういうなんとなく恐れや疑念が取り巻いていたことは覚えています。その空気を映画の中で場面化したのが、アイスや擦り傷のシーンでした。
この物語は、フリダだけでなく、マルガ、エステバ、アナにとっても、新しい家族を築いてゆく勇敢なチャレンジを描いています。若い叔父叔母夫婦のさりげない優しさにフリダは甘えと安心を覚えつつも、どうしても自分が中心になれないという苛立ち、安心しきれない不安感を抱き続けます。そんな彼女が最後に涙を流せることでようやく自分を見せることが出来、彼女の不安な旅路は終焉を迎えます。このシーンが映画のラストを飾るのは、どういう意味があるのでしょうか。
ラストのシーンは、フリダが解放されることを意味しています。脚本の最初のバージョンから、この泣くシーンを入れることを決めていました。実際に母が死んだ日、周りの大人たちは私が泣くと思って顔を見ていましたが、私は泣くことが出来ませんでした。そのことがずっと罪悪感として心に残っていました。でもそれからしばらくしたある時、小さい頃に私がベッドで飛んでいて突然泣いたんだよ、ということを、新しい母親が教えてくれたんです。その話を聞いていたので、映画のラストでこのシーンを入れたいと思っていました。ただ最後のこのシーンは非常に撮影が難しく、何度も繰り返し撮りました。それから編集の段階で泣くバージョンと泣かないバージョン両方のラストを作って、観てみたんです。泣かないバージョンはすごく硬い雰囲気をしていて、この家族はこれからまだまだ苦労が待っていて、本当の家族らしくなるのに時間がかかるなという感じました。それから泣くバージョンを観てみたら、ものすごく開放感がありました。これから幸せな家族を築いていくんだなという、ほっとするものでした。この場面はただお母さんの死を認めた瞬間というだけではなく、これからこの子供の家族が幸せに歩んでいく希望のようなものを感じさせる場面だったと思います。
カルラ・シモン監督:
1986 年、バルセロナ生まれ。 バルセロナ自治大学オーディオビジュアル・コミュニケーション科を卒業、カリフォルニア大学で脚本と監督演出を学び、2011 年、ロンドン・フィルム学校に入る。在学中に制作した短編のドキュメンタリー『BORN POSITIVE』と劇映画『LIPSTICK』は、多くの国際映画祭で上映された。本作『悲しみに、こんにちは』は、彼女の長編デビュー作で、ベルリン国際映画祭でプレミア上映され、新人監督賞、ジェネレーションPlus部門グランプリを受賞した。2013 年、シモン監督は、子供や十代の若者たちに映画を教えるため、“Young For Film!”をつくる。
『悲しみに、こんにちは』
(2017年/スペイン/カタルーニャ語/96 分/英題:SUMMER1993)
脚本・監督:カルラ・シモン
製作:バレリー・デルピエール
出演:ライア・アルティガス、パウラ・ロブレス、ブルーナ・クッシ、ダビド・ヴェルダグエル、フェルミ・レイザック
配給:太秦、ノーム
7月21日より、渋谷ユーロスペースほか全国順次公開
http://kana-shimi.com/