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映画『500年の孤独』キドラット・タヒミック監督インタビュー

interview & text by Asako Tsurusaki

『500年の航海』より

2018年10月、フィリピン映画生誕100年を記念して製作された『それぞれの道のり』が東京国際映画祭で公開された。戦う農民の行進を描いたブリランテ・メンドーサ、密林を彷徨う労働者を綴ったラヴ・ディアス、そして失われつつあるフィリピンの先住民文化を訪ねるロードトリップを息子と辿るキドラット・タヒミックという、なんとも贅沢なフィリピン映画3大巨匠によるオムニバス映画であった。中でもアジア・インディペンデント映画の父として呼ばれ、また山形国際映画祭や大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレなどジャンルを横断するアーティストとして日本でも有名なタヒミックは、一番の大御所でありながらも一番軽やかな足取りで、現代社会に必要な英知やアイデンティティとは何かを差し出してくれる。

フィリピン大学(UP)でスピーチとドラマを、アメリカのペンシルバニア大学・大学院で経営学を学んだのちにアーティストとなったタヒミック。1977年にデビュー作『悪夢の香り』でベルリン国際映画祭批評家賞を受賞した後、『月でヨーヨー』ではフィリピン人の発明とされる玩具のヨーヨーを月面で実行するという妄想に取りつかれた青年が家庭の日常品でロケットを組み立てて月旅行を成功させるストーリーを描くなど、一貫して自らが生まれたアジアの視点から、欧米の近代主義文明に疑問と批判的なまなざしを投げ掛け続けている。

父の代から受け継いだ74年製のバン「ジャンバラヤ号」に乗り込み、パナイ、バギオ、ダバオへ南下してゆくタヒミック父子。先住民を訪ねてゆく旅路を描く『それぞれの道のり』についてタヒミックは、会見で次の様に話してくれていた。

「“ラカラン(lakaran)”という言葉が作品に出て来ますが、これは物理的な移動や旅ではなく、”心の中の旅路”を意味しています。その度で辿り着くのは何らかの啓発や心の中であり、啓蒙されたところにだと思います。そしてこの道のりは、1983年のアキノ革命で活動家たちが辿った旅にも重なります。フィリピンは今も西側の影響下にあり、ある意味占領とも言えるような圧力がかかっています。ですから私は彼らアーティストたちに会って、土着の民族の方々に会う、そういう象徴的な旅にしたかったのです。私は映画をつくることで地球の温暖化や森林破壊に警鐘を鳴らし、そしてネイティブの持つ英知が今の世界に必要であるということを世界に伝えたいと思っています。南米の映画でインディオたちが自分たちの英知の大切さを謳った作品を見たことがあります。現代の私たちフィリピンのリーダーにしても、GNPをあげて雇用促進や経済成長のことばかりに目を向けており、こういう声に耳を傾けようとしない。南米のアマゾンやエスキモーのネイティブの英知こそが、いま必要ではないかと、私は思います」。

そう語るタヒミックがなんと35年に渡る月日を超えて公開を迎えた新作は、世界で初めて世界一周を果たしたとされるマゼラン艦隊が、実はフェルディナンド・マゼランは旅の半ばで命を落としており、実際に世界一周を達成したのはマラッカ出身の奴隷エンリケであるとするなんともユニークで壮大なロードトリップ『500年の孤独』だ。マゼランから始まる長い植民地時代の始まりを、アジアの側から世界史を読み直すこの壮大な物語は1980年代から35年以上にわたって撮影され続けた。当初は監督本人がエンリケを演じていたが、長期撮影で年齢を重ねたため途中から役をチェンジし、マゼラン役も途中で代わるなど、映画の約束事を飛び越えている。

キドラックは「イナズマ」、タヒミックは「静か」を意味するという。イフガオ族の民族衣装に身を包み、静かな稲妻をビカビカと光らせ続けるタヒミックは何を考えながら映画を撮り続けているのか。映画祭で来日していた監督にインタビューを試みたので紹介したい。

 

東京国際映画祭(2018年)での『それぞれの道のり』記者会見で、映画を作ることで地球の環境問題に警鐘を鳴らすこと、そして先住民の英知を現代に知らせることについて語られていました。世界環境会議でもサイクロン問題について度々協議されているように、今やこれまでは20年に一度起こっていたレベルの台風が毎年起こっています。

キドラット・タヒミック(KT):
フィリピンにいるとだいたい毎年メガタイフーンに遭います。私がよく言う冗談でこんなものがあります。フィリピンから日本への最大の輸出は2つある。ひとつはじゃぱゆきさん、もう一つは台風です、なんてね(笑)。5年前のタクロバンを襲った台風「ハイアン」(※フィリピン名は「ヨランダ」)が来た時、誰もがこんなに大きい台風は初めてだと思っていたのですが、もっと大きいものが今年もやってきたわけです。仰る通り、フィリピンでは毎年巨大台風が起こっています。フィリピンはいつも台風がくるルートがあるのですが、最近はぐるっとまわって中国大陸をかすめて日本まで来てしまいます。これは新しい出来事だと思います。

 

今回の「500年の航海」には、西洋文化が台風のようにフィリピンに向かってぶつかってくる始めての瞬間を描いています。現代フィリピンにとって昔を振り返ることは、この作品へどのようなメッセージが込められているのでしょうか。

KT:
私たちが習ってきた歴史は、まずスペインとアメリカによって書かれた歴史というものを、自分たちのフィリピン史として習ってきました。私の母の世代のフィリピン人も、アメリカはフィリピンを文明化して野蛮から解き放ち、キリスト教を教えるためにきてくれたんだ、1946年にアメリカが親切心でフィリピンの独立を与えてくれたんだ、と信じこまされてきたんです。ですからフィリピンの人たちに「いや、歴史の教科書に書いてあることだけじゃなくて、他にもいろんなことが起こっていたんだよ」という風に、パッと目を開かせて気がついてもらえるのは大事なことだと思います。映画作家にかかわらず、インディペンデントのフィリピン芸術家たちはみんな、そういった植民者たちによって書かれた歴史に対して挑戦しようという気持ちを持っている気がします。

 

日本人の私自身も、日本人のフィリピン侵略の歴史に対して「日本人はフィリピン人に嫌われておらず友好的だった」と教えられてきました。

KT:
韓国についても同じことが言えるでしょうね。それは、歴史とは常に勝った側によって書かれてきたものだからなのです。でも支配されている側は、侵略者とは違ったものの見方をしているわけです。ですから真実を導き出すための手段ということを、私たちは考えなければいけないのです。

 

作品を構想した当初より、逆サイドからの見え方というものを考え直そうとしていたのでしょうか。

KT:
最初にこの作品を撮り始めた時は、特に何かミッションやメッセージを持っていたわけではありませんでした。当時私は「ヨーヨーはフィリピンで発明された」ということを証明した『月でヨーヨー』(81)を完成させたところでした。この作品で私はヨーヨーと同じく月面歩行をしたのもフィリピンが世界初であると描いたのですが、その製作途中で「世界で最初に世界一周を成し遂げたのは、マゼランではなく彼の奴隷かもしれない」という話を聞きました。その時、これはフィリピン人の創造性に対するオマージュとして『月でヨーヨー』の続きになるのではないかと思ったのです。

 

35年前から現代まで、マーシャルロー、アキノ革命など実に多くの歴史的事件が起こり、フィリピンの情勢も大いに変わってきていると思います。このような時間は、作品にどのように影響してきましたか。

KT:
まず1979年にこのマゼランと奴隷を主人公にした作品のプロジェクトが始まったわけですが、それからすぐ1983年にアキノ大統領が軍によって空港で暗殺されるという事件が起きました。『虹のアルバム 僕は怒れる黄色 ’94』(94)はこの時期に撮影したもので、マルコス政権と戦っている子供達と一緒にデモに参加しているシーンが映っています。実はこの頃、ちょうど息子たちが大きくなってきたので彼らと一緒にギャングメイト(悪仲間)になろうと思っていた時代で、『500年の航海』を含め映画製作という作業をお休みにしていた時期でもあったのです。とは言えこの頃は政治的な変化が起こり、なんとか独裁者を追い出そうという運動が高まっていた時期でがあったので、私にとって映画作家としての活動を続けようという動機になりました。

 

マゼラン上陸の時代を描くことは監督にとってどのような意味があるのでしょうか。

KT:
『悪夢の香り』(77)を撮り始めた時から、いかに植民地支配というものが私たちフィリピン人に大きな文化的な影響を与えたか、大きなレガシーになってしまっているのかを自覚し始めました。その時から、宣教師やアメリカの政治家たちが言ってきたような、フィリピンを「文明化してあげた」んだという歴史感が正しいものなのか、それとももしかしたら400年間の植民地支配の中で破壊される以前に、もっと美しい素晴らしい文化があったのではないか、ということを自問自答し始めたのです。フィリピンの作家で、フィリピンのことを非常にうまく表現している人がいました。それは「フィリピン人というのは、350年間修道院にいて、50年間ハリウッドにいたんだ」とね(笑)。私はいまバギオという街に住んでいるのですが、ここはアメリカ植民地支配時代に、植民地軍が真夏の暑い時期に避暑地として訪れるために作られた街なんです。そういった歴史を持つ一方、非常に美しい山に囲まれた地域で、山にはふんどしをはいたイフガオ族という素晴らしい文化を持った先住民が住んでいます。そんな場所のど真ん中にあるバギオにいる私は、ここで起こっている衝突と、自分たちフィリピン人が抱えている矛盾をひけらすにはとてもいい場所だと思いました。

 

監督のルーツにはイフガオ族があるのですか。

KT:
私自身が生まれたのは先住民が住む場所のど真ん中という位置関係にあるこのバギオですが、両親は外からやってきた人間です。でも『それぞれの道のり』にも登場する先住民の友人はみんな、「君は前世では我々の仲間であったに違いない」と言いますけどね(笑)。

 

実際に占領軍と先住民の衝突を間近に見てきたはずの監督ですが、あなたの作品からは「怒り」のようなものではなくむしろ友好的で明るい世界観を感じます。それはどこからくるのでしょうか。

KT:
私は多くの人に対していつも言っていることがあります。それは「握りこぶしを握りしめたような映画は作らない」ということ。文化的な矛盾を導き出すにしても、拳を振り上げるのではなく、ユーモアを持ったやり方でやりたいと思っています。私の映画はその殆どが息子や孫といった次世代に向けられたもので、なかには彼らが入り込んじゃったものにもなっています。だったら、父親やおじいさんである自分が怒ったトーンで植民地の歴史を語るのではなく、それよりも「一緒に笑ってやろうよ、この変な歴史を」という態度を取った方が、子供達にも伝わるんだと思っています。

 

とてもフィリピンらしい国民性を感じる言葉ですね。

KT:
フィリピンには昔から、常に他者を自分の中に取り込んでいこうとする考え方があります。30年くらい前にフィリピンの大学教授で、こんなことを言った人がいました。「なぜ私たちはフィリピンの歴史やフィリピン人の意識を分析する時に、西洋のユングやフロイトの理論を使うのか。むしろ我々自身の文化的価値の根本に戻り、自分たちの視線で自分たちを分析しようとはするべきではないのか」と。もともとフィリピンは言語的な文化として、自分自身に他者を取り込んでいくという傾向があるのです。そのためには、他者を扱う時にはもっと親切で優しくなければいけません。先住民の人々もまた同じように、色んな他者を自分の中に取り込んでいくような文化を持っています。彼らは人種や外見を問わず、時には自然という「他者」すらも、自分の中のコミュニティに取り込んでいくわけです。「我が友の木」「友達の川」「友達の岩」というようにね。友達である人や木を傷つけようとは思いませんよね。ただそこから必要なものだけ頂く、という考え方なわけです。でもそういった文化は、占領者であるスペインなどがやってきて失われてしまいました。木の一本一本に値札をつけて「これはいくらだから、これを全部切ったらこれだけ売れて、これだけの収益になる」というという考え方に変えていってしまったのなんです。

 

言葉も同じことが言えますね。フィリピンは植民地の歴史が長いということもあり、タガログ語の名詞や文法には英語やスペイン語が多く取り入れられています。

KT:
「タグリッシュ」と呼ばれるタガログ英語ですね。そう、私たちは最初から混合した文化を持っているのです。しかし現代において、私たちが植民地主義化以前の歴史に戻ることは不可能です。400年前に戻り、植民地文化をブロックして全部消去してしまえたら楽なのですが。でもそんなことは出来ないので、私たち自身は今後も東と西の混在した文化を抱いて生きていくしかないのです。そこで大きな問題になってしまっているのは、西洋文化の影響を受ける以前のプレ植民地時代の文化について、多くのフィリピン人が羞恥心を持ってしまっているということなのです。それは人間は誰しもよく陥りがちな、消し去ることが出来ない共鳴装置(エコーチェンバー)の中にいるような状態になってしまっているということです。フィリピンでは多くのエリートたちが「フィリピン人は劣っている時代遅れな存在で、多神教で野蛮な宗教を信じているのだ」と信じ込んでいるがために、自分たちに対して繰り返し同じことを言い続けてしまいます。そしてその声が反響する中で、自分たち自身を貶めるような状況から抜け出せずにいるのです。ですからインディペンデントな映画作家あるいはアーティストである私の役割は、若い人たちに「ロペスさん(作中にも登場するイフガオ族の長老、ロペス・ナウヤック氏)みたいになるのがかっこいいんじゃん」と気が付かせること。アメリカ人やスペイン人が言い続けてきたようなフィリピン人のイメージではない自分たちに、気が付いてもらうこと。木や川を全部自分の中に取り込んでいってしまうというような、フィリピンがもともと持っているおおらかな世界観がかっこいいんじゃないかということに気が付かせることが、私の大きな役割なんだろうと思っています。

 

オムニバス作品『それぞれの道のり』(2018)にも、スペインの征服者「フェリペ2世」という名前が国名「フィリピン」に由来しているという逸話がありましたね。

KT:
フィリピン人はもはや、それすらも冗談にしちゃってますけどね(笑)。でも本当に、何故フィリピンがいまだにその名前を名乗り続けているのだろうか、甚だ疑問です。暴虐の王様「フェリペ2世」の悪いカルマをひきずっちゃってるんじゃないかな、という考え方になりますよね。

 

フィリピン人の「取り込む」という考え方を聞いて、『500年の航海』でマゼランとエンリケが双子として輪廻してハッピーエンドを迎えていることに大きな意味を感じました。

KT:
ハリウッド映画の典型的な語り口だと、強くてひどい主人とかわいそうな奴隷という関係ですよね。でももしかしたらマゼランがたまたま主人であっただけで、そこにいた奴隷であるエンリケを見て、「こいつ結構面白いじゃないか」と思うような人柄だったということもあり得るんじゃないかな、と思ったのです。彼らがチェスをやっていて、マゼランがエンリケを「こいつ俺より強いじゃないか」と思うシーンがあります。そこでマゼランはエンリケに「君は奴隷のままでいちゃいけない」というようなことをずっと言い続けたりするんです。ハリウッド的に、主人は悪い黒、奴隷はイノセントな白という風に、「黒 vs 白」と描いてしまったほうが簡単でしょう。でもたまたま航海団のボスだから主人という立場にいる人間(マゼラン)と、たまたま奴隷である人間(エンリケ)という関係性で考えた場合どうなるだろう、と考えてみます。するとより興味深い話になっていくと思います。また一つの表現の話の進め方として、奴隷自身もずっと主人と一緒にいる間に、主人の放つ共鳴室(「君は奴隷のままでいちゃいけない」という言葉)の中で奴隷側もそれを受け入れ始め、自分はこういう奴隷でなければいけないと思い、実際にそうなっちゃったら面白いなと考えたのです。

 

最後に、監督がバギオで行なっているアーティストギルドについて教えてください。

KT:
バギオの若いアーティストは私のことを「OTOSAN(お父さん)」と読んでいます。多くの映画作家もそう呼んでくれています。この白髪のせいかもしれませんが(笑)、私は年をとっているわりには若い人と付き合いやすい人間だからかもしれません。自分の息子とギャングメイトになろうとしたように、私は彼ら若いアーティストとも同じ目線で話が出来ます。私は芸術家や映画作家になりたい人たちにいつも言っているのは、ハリウッドをコピーしたりピカソの真似をしたりするのではなく、バギオの周辺の棚田や米を絵に描いたらり、ロペス・ナウヤックみたいな人を肖像画に描けばいいじゃないかということ。そういう別の見方をするアイデアを与えていくことに関しては、私は彼らにいい影響を与えているのかもしれません。ハリウッドをコピーするのではなく、オリジナルのストーリーを作れる映画作家になってほしいと思っているのです。それが出来た若い映画作家には、この「竹カメラアワード」(写真で監督が持っている竹で編まれたカメラ)を差し上げましょう。これは竹の皮で編んだ、魚を獲る時に使う籠で作ったものです。この「竹カメラ」はひとつのメタファーで、ハリウッドのやり方でストーリーを語るのではなく、私たちのものの見方の視点でものごとを見よう、撮ろうということを伝えています。それは私たちが昔から引き継いできている物語を語ることであり、次世代の者たちは昔から伝わってきた言葉や物語を聞く権利があるからなんです。先日のことですが、もしかしたらこの「竹カメラ」はフィリピンのドゥテルテ大統領にも影響を与えることが出来たかもしれません。実はこの度、大統領よりナショナル・アーティスト賞というものをもらいました。その時大統領にこのカメラで「自撮りしよう」と言って見たんです。(手元にある新聞の記事を見せながら)めったに笑わない方というイメージがありますが、笑顔でしょう?こんな風に竹カメラは、若い人たちの考え方の道筋をちょっと変える、良い道具になると思います。映画を撮る時も小説を書く時も、西洋をコピーするのではなく、別のやり方があるんじゃないのか、と気づかせるためにね。

 

 

 

監督プロフィール:
キドラット・タヒミック Kidlat Tahimik (本名 エリック・デ・ギア Eric De Guia)
1942年フィリピン、バギオ生まれ。アジア・インディペンデント映画の父と呼ばれている。デビュー作『悪夢の香り』(77年)でベルリン国際映画祭批評家連盟賞を受賞。この『悪夢の香り』はフランシス・フォード・コッポラが激賞し、自らアメリカでの配給も手がけた。フィクションとドキュメンタリーを混在させる斬新な映像話法で描き、笑いのなかに先進国の独善と近代化の裏面を揶揄する『悪夢の香り』は、タヒミックの名を一躍世界に広め、後進のアジアの映画作家たちに大きな影響を与えた。続いて、フィリピン人の発明とされる玩具のヨーヨーを月面で実行するという妄想に取りつかれた青年が、家庭の日常品でロケットを組み立てて月旅行を成功させる『誰がヨーヨーを発明したか?』(78~81年)、息子の成長を記録した個人映像から激動のフィリピン現代史を浮かび上がらせる『虹のアルバム 僕は怒れる黄色’94』(94年)などの個性的な作品を次々と発表。その後もインディペンデント映画作家の旗手として、自主制作と上映を続けている。また、自作上映と併催して先住民イゴロト族のグループと踊りや寸劇のパフォーマンスを行い、美術の分野でも、埼玉県飯能市の竹寺や新潟県の越後妻有にしばしば長期滞在して、インスタレーションや映像作品を創作するなど、ジャンルを越境するアーティストとして幅広く活躍している。1986年にはバギオ・アーツ・ギルズを創設し、若手アーティストの育成にも尽力している。開催中の東京国際映画祭2018ではフィリピン映画100周年を記念して作られたオムニバス映画『それぞれの道のり』にラヴ・ディアス監督、ブリランテ・メンドーサ監督と共に参加している。2018年にはフィリピン芸術界の最高の栄誉である「ナショナル・アーティスト」の称号を獲得することが発表された。

 

 

『500年の航海』
2017年/フィリピン/カラー/DCP/英語・スペイン語・タガログ語/161分
原題:Balikbayan # 1 ― Memories of Overdevelopment Redux  VI
監督:キドラット・タヒミック
出演:キドラット・タヒミック、ジョージ・スタインバーグ、カワヤン・デ・ギア
配給:シネマトリックス
http://cinematrix.jp/tahimik_japan/

2019年1月26日よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー
キドラッド・タヒミック特集、同時開催

 

 

 

 

 

 

January 27,2019

『500年の航海』より

『500年の航海』より

『500年の航海』より

『500年の航海』より

『500年の航海』より

『500年の航海』より

『それぞれの道のり』監督:ブリランテ・メンドーサ、ラヴ・ディアス、キドラット・タヒミック(2018年/フィリピン/118分)

『それぞれの道のり』監督:ブリランテ・メンドーサ、ラヴ・ディアス、キドラット・タヒミック(2018年/フィリピン/118分)

東京国際映画祭2018トーク風景 左:ブリランテ・メンドーサ/中央:カワヤン・デ・ギア/右:キドラット・タヒミック

東京国際映画祭2018トーク風景 左:ブリランテ・メンドーサ/中央:カワヤン・デ・ギア/右:キドラット・タヒミック

キドラット・タヒミック 監督(竹カメラを持って)

キドラット・タヒミック 監督(竹カメラを持って)