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『馬を放つ』アクタン・アリム・クバト監督インタビュー

interview & text by Asako Tsurusaki

古来より、”馬は人間の翼である”ということわざがキルギスには存在している。そんな遊牧民を祖先に持ち、かつては馬と分かち難い絆で結ばれ、豊かな自然の中で馬と共に駆けてきたキルギスの民たち。そんな民族的自意識が薄れつつある現代において、ただひとり馬の神話を純真無垢に信じた男の生き様を描いた、『馬を放つ』。
美しい聾唖の妻と口を利かぬが可愛い息子と暮らすキルギスの労働者、ケンタウロス。彼には誰にも言えない秘密があった。それは村の馬を度々自然へ放つということ。その行為によって馬の神様を人間が支配している世界から放ち、キルギスの拳が結束していた過去の時代に戻れるとしていたのだ。しかしある日とうとうこの行いが明るみになり、彼は村から罰を受けることになるのだが…。
キルギスが世界に誇る名匠、アクタン・アリム・クバト監督が自ら監督・主演を務めたこの作品は、純粋無垢に信じるもののために生きる難しさにもがく主人公の姿を通し、文化的アイデンティティが失われつつある現代社会へ警鐘を鳴らしている。キリスト教とイスラム教、そして新旧の伝統が美しく混濁するこの大地で、生きる男の姿を描いた監督より、キルギスの民として生きた”ケンタウロス”について、話を聞くことが出来たのでここに紹介する。

 

[Interview with アクタン・アリム・クバト監督]

■本作は、1998年の作品『あの娘と自転車に乗って』にも出ていた映写技師やインド映画の上映などが登場してきます。本作の主人公ケンタウロスも同じく、”元”ですが映写技師という設定です。このキルギスの古きを重んじる象徴的な主人公を通し、19年(※インタビュー時は2017年)という月日を経たキルギスという国のどのような変化を描いているのでしょうか。

 

実は、話はもっと複雑です。『あの娘と自転車に乗って』は、私の2つ目の映画です。『ブランコ』『あの娘と自転車に乗って』『旅立ちの汽笛』。この三部作は、主人公が子供の時から、ティーンネイジャーになって大人になって、どんどん成長していく
一つの自伝と言ってもいいでしょう。そして今作は、これから続いてゆく新たな自伝的三部作の一つ目として考えています。先の自伝では主人公が映画を見ていましたが、今回は主人公が映写する側になります。この年を取った「彼」は、全部一人の人物として考えていいのです。もちろん彼が成長すると同時に、色々変化がありました。ですがそれは国の変化ではなく、自分が何を考えているのか、自分が何を経験しているのかということが、彼にとって大事なのです。自伝なのですから。

 

■この作品の主人公は、キルギスの土地に伝わる「神話」の集合意識に取り憑かれていると同時に、人間臭く俗的な感情も兼ね備えた複雑な人間です。自伝的作品ということは、この人物像のルーツは監督の自伝的なお話ということで良いのでしょうか。

 

はい。主人公の職業を映写技にしたのは、私自身が映画が好きだという理由からです。映画を通じて、これからも「彼」の話は続いてゆくのです。

 

■映画の中で、日本人から見て珍しく感じる風習のシーンがいくつもありました。例えば馬を盗んだケンタウロスの刑罰を、村の「老人」を中心とした村人たちが集会所で決めるシーンなどは、法的にではなく民主主義で自治的なものでした。「私刑」とも取れるような空気感が漂っておりとても興味深かったのですが、これは現代のキルギスでも一般的なことなのでしょうか?

 

そうですね。首都から遠く離れた田舎の村では未だに行われていることです。私の実の兄も、何度も「老人」の立場で参加したことがあります。これは珍しいことではなく、よくあることなんです。ちょっとしたイタズラのような小さな悪さや、夫婦喧嘩、夫の浮気など(笑)。その場合は奥さんが老人たちに訴えて、村の皆が集まって裁判を行います。村人が全員が集まったら、老人だけでなくもちろん皆で、罪を犯した者の善悪や、彼をどうやって直して正すことが出来るのかを考え、罰を決めます。ただし殺人など重い罪の場合は、もちろん警察を呼んで正式に法的な裁判にかけられます。でもこの映画の舞台になっているような田舎の人たちというのは、そんな重い罪を犯したりしないものですけれどね。本作品のこのシーンで村の人々が全員集まっていたのは、馬を奪われた人物が村一番の権力者で金持ちだからです。もしそうではなかったら、それほど大げさなものにしなかったかもしれません。

 

■話が進むにつれ、イスラム教とキリスト教の不思議な共存関係が感じられる場面が時折登場します。イスラム教へ勧誘する男たちのグループやキリスト教徒とイスラム教徒の言い争い、イスラム教徒になることで罪を浄化することへの美徳など。またそこへ、もともとキルギスに土着として根付いているアニミズムのようなものも共存しています。このような環境は、キルギスにはよく見られるものなのでしょうか。

 

キルギスでは、どの宗教を信じても個人の自由です。イスラム教やキリスト教、サイエントロジーの信者など、色々います。ですから、イスラム教徒とキリスト教徒が出会っても問題は起こりません。そういう意味では日本と同じかもしれません。

 

■作中の後半でケンタウロスの髪を剃っていた、イスラム教徒の若者について伺います。彼は本作に登場するイスラム教徒の中で、最もケンタウロスに興味を示している人物です。キルギスでイスラム教を信じるのは若者が多いと聞いたことがあるのですが、彼はこの土地の「若さ」の象徴的な人物なのでしょうか。

 

その通りです。確かにいまキルギスの若者たちのなかでイスラム教徒が増えているのは、自分のキャリアのためにやっているというのが大きな理由です。作中に登場するこの若いイスラム教徒もそうで、彼は映画の中でケンタウロスにこんな忠告をしています。「僕は本当はイスラム教じゃないけれど、みんなとうまくやっていくためにイスラム教徒として振舞っています。僕の中には小さな天使が存在していて、時々山から下りてきた天使と話をしたりもしています。あなたも僕のように、うまくやりなさい」とね。彼がイスラム教徒のフリをしているのは、そうすることによってどんどんキャリアを積んで自分の生活がしやすくなるためです。もちろんもっとアグレッシブで熱心なイスラム教徒も作品には登場していますが、キルギスのイスラム教徒にはいろんな人がいるのです。

 

■この作品は、キルギスの大地の神話に対して、主人公だけが持つ狂信的なまでの確信が原動力になっています。彼はメタファーとしてのキルギスの神である「馬」を放つことによって、キルギスの拳が結束していた過去に戻れると信じています。しかし結果的には彼の行動が招いた行動によって、皮肉な結果が彼を待ち構えています。監督はこのことで、ケンタウロスのおかしな「敗北」を描いたと仰っていましたが、これは現代における神話的な存在が消滅しているということを指しているのでしょうか。また登場するイスラム教を出世に利用する若者を通して、神話的な存在を信じていくことが難しい現代を描いているのでしょうか。

 

仰る通りですね。現代のキルギスは、遊牧民として昔の神様を信じている人たちにとって、どんどん生活しにくくなりつつあります。また逆に(先ほども申し上げたように)、キャリアのために自分がイスラム教だと装う人もいます。たとえ深い信心がなくても、イスラム教徒であるということはキャリアとして利用しやすく、出世していく状況に繋がりやすくなるものなのです。おそらく世界中どこでもそうだと思いますが、主人公のような純粋に真実を信じる人、真実しか口に出さない人にとっては、住みづらくなっているのかもしれません。どこかで言いなりになったり、嘘をつかなくてはいけない。そういう世の中になってしまったのではないかと、感じられます。

 

■この作品には、「神話」という口伝えの要素が多く含まれます。中でも象徴的なのは、聾唖の妻と、ほとんど言葉を発さない息子の存在です。最後のシーンで主人公が自分の人生における使命を全うした瞬間、息子は父親の言葉が継承されたかのように口を利き始めます。

 

そうです。自分が死んだあとに、こうやって次の世代に伝わっていくのです。神話は紙に書かれることなく、昔ながらの口承伝達で伝わっていきます。伝統や習慣などもそうです。我々キルギスの民にとっては、それが普通のことだったのです。

 

■途中の山々ももちろんですが、特に最後の馬が川を渡るシーンなど、自然と自然に生きる馬たちがダイナミックに動く様がとても素晴らしかったです。馬のシーンはどのように演出・構成を考えて撮影したのでしょうか。監督自身も、とても素晴らしい乗りさばきでしたね。

 

このシーンの撮影が難しかったかと言ったら嘘になるかもしれませんね。現地の馬を撮ったので、簡単だったのです。この村のどこでも馬は使われていて、そこら中に馬はいます。野生ではありませんが、すぐ近くにある村の馬たちです。馬たちはそこで餌を食べたり水を飲んだりしています。現地の馬ですから川に慣れてますし、恐怖感もありません。私たちは撮影陣は、カメラの位置を決めればいいだけです。後ろから、いつものように馬に向かって押したり指示をしたりしてね。ここには橋もないので、川を渡るには馬を使うしかありません。だから馬も、川の渡り方には慣れているんです。ちなみに逆に馬を盗む人たちは、絶対に川を渡らなくてはいけません。なぜなら後から犬を使って探すとき、川に入れば匂いが消えてしまってわからなくなっちゃいますからね。
…、簡単と言いましたが、もしかしたらそれも嘘になるかもしれません。というのは、私は主人公を演じている役者でもありましたし、撮影現場のセッティングが出来たあとに呼ばれてきます。監督にとっては簡単に感じますが、もしかしたら馬を集めたりしたスタッフの方たちにとっては大変だったかもしれません。私は「アクション、カット!」で終わるわけですから(笑)。

 

 

『馬を放つ』
(2017年 / キルギス・フランス・ドイツ・オランダ・日本)
監督・脚本・主演:アクタン・アリム・クバト
出演:ヌラリー・トゥルサンコジョフ、ザレマ・アサナリヴァ
配給:ビターズ・エンド

公式サイト:http://www.bitters.co.jp/uma_hanatsu/
Facebook : https://www.facebook.com/umahanatsu/

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March 21,2018