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『変魚路』高嶺剛監督インタビュー (前編)

text : asako tsurusaki

『変魚路』ポスター

『ウンタマギルー』『夢幻琉球・つるヘンリー』で唯一無二の”オキナワンロードムービー”を描いた沖縄の宝、高峰剛監督が18年ぶりの長編映画を発表した。『変魚路』と名付けられたその作品は、監督と沖縄が抱える深い記憶の迷宮へと観客を誘う。
苛烈な「島ぷしゅー」から生き残った”死に損ない”たちが暮らすパタイ村。そこに住むタルガニと親友のパパジョーはこの世に絶望した自殺願望者の「生き直し」事業を営んでいる。ある日、禁制の媚薬を盗んだ疑いで村を追われることになった二人は、人間か妖精かわからないモノたちにつきまとわれながら沖縄の島を彷徨うことになる。そしていつのまにか追うモノと追われるモノ、過去と現在、生きているモノと死んでいるモノ、色々な境目が消える「変」な時間軸に巻かれ記憶の迷宮に潜り込んでゆく…。
どのシーンを切り取っても漂ってくる沖縄土着の匂い、神話の香り、眩惑的な映像言語。高峰監督がひっさげてきた待望のこの世界に、どっぷりと迷い込んでみよう。

 

[沖縄で撮ることになった見るべき風景]

高嶺峰監督が映画制作に参入していったのは、ジョナス・メカスやA.ウォーホールたちが当時発表していた映像作品の影響からと聞いています。その頃のことを教えていただけますか。

そうですね、70年代前後のアメリカのインディペンデント映画、たとえばジョナス・メカス、スタン・ブラッケージ、アンディ・ウォーホルなど、日本の作家だと、大林宜彦、高林陽一、かわなかのぶひろ、安藤紘平などを見て、すごく影響を受けて僕も映画を始めようと思ったのです。はっきり覚えていないけれどほとんど、京都の京大西部講堂で自主上映されていて、それを観ていましたね。
当時は、そのような映画は、実験映画、個人映画、プライベートフィルム、インディペンダント映画、などと様々な呼び名があり、まぁ既存の商業映画とは、はっきりと一線を画す意図をもっていて、「映画」が撮影所の劇映画をさすのなら、「映画」というより、非商業的映像表現作品でした。様々な分野の「カウンターカルチャー」のひとたちが映像をやるというようなことが普通でしたから、映像専門の作家はもちろんですが、写真、現代美術、音楽、絵画などが、アンダーグラウンド文化と微妙に関係しながら、お互いの表現の枠を超えて、既成の価値観にとらわれない、もしくは壊す映像作品をつくっていて、沖縄から来た僕にとっては、とても刺激的な体験でした。今だにそうですが…。僕の場合はたまたまでしたが、そのひとたちの映像作品を京都で見て、すっかりノックダウンされました。「アンダーグランド」の洗礼ですね。

学校の寮を「ファクトリー」としてアトリエや上映会場として使っていましたが、それもその時代でしょうか。

僕が行った京都の大学に、古い木造の建物があったんです。戦後、米軍進駐軍の将校部屋として使われていたという場所がありました。僕がいた頃は寮というより倉庫みたいになっていましたが、広くて天井も高く、いい感じだったんです。それで僕はその倉庫を自分の個人のアトリエみたいに使って、ウォーホールよろしく、ひそかにファクトリーと称して8ミリ編集やシルクスクリーンをやったりしていたんです。

もともと美術学科で絵を描くことを学びに京都にいらしたのですよね。当初はどんな絵を描いていたのですか。

絵描きを目指して京都に来たはずなのに、結局、絵の勉強をしなかったんだよね(笑)。当時はしきたりに基づいたような絵の勉強なんて古臭くて時代遅れだという風潮だったので、アトリエの主みたいな先輩に「ふん、これまでの価値観に便乗したような表現なんてナンセンス!」、と言われる時代だったんですよ。型通りの映画とか絵画とかじゃなく、既成の価値観でものごとを考えていくことを、とりあえずやめようということになりまして、じゃあ何をやったらいいのかな、バラの絵を描くというわけにもいかないし、自分には何ができるのかなと考えていました。それで当時流行っていたのが、そういう既成の価値観を崩すという意味合いを強く持った「コンセプチュアル・アート」。コンセプチュアル・アートって、今だと、枠をもった美術表現のひとつのジャンルの意味合いか強いですが、当時は、とにかく既成の価値観を壊すための一つの方法みたいな性格もあったんです。一つのステップの場とでも言うのかな。概念芸術ですから、実に様々な表現がありました。一番感心しましたのは、「作らない表現」でしたね。まぁ当時はそのようなことも当たり前でしたけどね。「表現」のことは考えるんだけど、表現物は作らない。そういうのがとても面白くてね。作る以前のプロセスみたいなのが非常に大事で、そのへんを大事にしようという風潮だったんです。その結果、作品が立派じゃなかったり形にならなくても、それも一つの表現じゃないか。必ずしも目に見える作品を作るということが目的にしない。そういう考え方だったんです。僕はおおいに共感しました。まるで、何かになるということは、恥ずかしいことでもあるかのように…。

高嶺さんも作られなかったのでしょうか。

少しは描きましたよ(笑)。故郷を離脱してきた者の志として、京都へ来た理由は画家志向でしたからね。だが絵の制度そのものが古臭いといわれると、それじゃあ絵を描くことで、自分の表現欲をおさめることを止して、「風景を見る」というスタンスで表現を考えていこうとしたんです。作品を作るのではなく、映像の機械や写真機、8mmなどを使って風景を見るということから始めました。自分が風景にどのように反応するのかを自分自身で試すのです。
絵の場合は絵筆を使い、多少なりとも身体を動かして何かを作っていきます。でも映像というのは頭の中で予測想像していくということがたくさんありますし、「見る」という、対象を噛みしめていくような作業が大切になってくる。そのへんが面白くて僕も関わっていけるなと思ったんです。そのような「見て」いくという作業が続いて、いつの間にか映画を作ることになってしまったというような、成り行きでしたね。

そんな「見て」いくという視点の先を、当時拠点にされていた京都から沖縄に移していったのは、どういう経緯だったのでしょうか。

ウォーホールの真似をして京都のファクトリーでちょろちょろと色んなことを考えていたんですが、じゃあこのファクトリーで何が生まれたのかというと、じつは、自分を変えるようえな作品は何も生まれないんですよ。なぜなら、僕にとっては、京都という風景に実感を持てなかったんです。肌があわないとでも言おうか、京都の風景は、日本にとって意味があるかもしれませんが、僕にとってはもっともっと見るべき風景があるんじゃないかというふうに思ったわけです。それが、「出てきたはずの沖縄」だったんですよ。
それからは京都に住みついたままでしたけど、年の半分くらいは沖縄に行って、沖縄の風景を8mmフィルムで撮っていました。最初はその8mm映像を作品にしようとか、映画作家として作品を撮るために沖縄に取材に行くとかじゃなく、とにかく沖縄の風景に接してみて自分がどのように感じるのか、いったいこの風景は何なのか? それをどうしょうというのか?ということなどを確かめるための行為だったような気がします。結局のところ、何が確かめられたのか、直ちに、はっきりと分からなかったが、そのような作業をしつこく続けているうちに、やがて8mmとなれ合いになって嫌気がさしてくる。8mmフィルムを映写機にかけて見ると、もちろん「時間」というものにつきあわざる得なくなる。それで現場の音や音楽を付けるたりして、いろいろといじっているうちに、「それらしくはなるが」、どうしても、あれほど敬遠していたはずの制度を帯びた「映画」という作り物の方向にいってしまうんですよ。私の映像入門の動機からすれば、これはやっぱりヤバいことでしたが、そのヤバサって、もしかして必要かなって?悪魔のささやきですかねぇ…。すでにあるような映画の枠に入っていくのではなく、自分の映画の枠を作ればいいじゃないかって、開き直ったのかな。これはこれで結構面白くなってきて、沖縄での撮影も、つい編集を意識したようなものになってしまう。結局、「この風景はいったい何なのか?」ということを思考を放棄しないことを前提に「映画」としての作業を続けました。結果としてそうなってしまったという感じですね。だから僕が映画に関わったのは、東映や日活などの映画ファンからというよりは、むしろ表現のひとつの展開として、映画制作の道に進んできたのです。僕のやってきたのは、アンダーグラウンドなカウンターカルチャーです。だから、沖縄で撮影するときは太陽が眩しくて、つい避けてしまう(笑)。
「映画」というと、個人では制作しないもの、できないものと、思いがちですが、僕にとっての「映画」は、ジャンルはどうであれ、沖縄で自分のペースで作ることが可能な、「超個人の映画」だと思っていました。これは正論だと思っています。だから僕はたとえ自分の作品のスタイルが変わったり劇映画になったりしても、個人の立場で映画を作ったり関わっていくのは大事なことだと思いますね。そしてそれを「沖縄の湯気が漂う場所」で撮影するということが、僕にとって大事なことなんです。だからカウンターカルチャーとかアンダーグラウンドとかっていう言葉を敢えて使います。

[フィルムが蓄える時間の力]

『変魚路』のタイトルについて伺います。意味を特にもたせていないということですが、映画のきっかけとなった、北村三郎氏から教えてもらったという「むどぅるちゅん」という言葉について教えてください。「頭がカラになる」という状態を表す言葉ということですが、いまでも実際に沖縄で使われている言葉なのでしょうか。

「むどぅるちゅん」という言葉が映画制作のきっかけになったというより、撮影中に北村三郎さんがこの言葉を使われていたんです。それでこのウチナー口が『変魚路』のキーワードとして生まれてきた、ということですね。「むどぅるちゅん」という言葉は沖縄の言葉のなかでも、非常に難しい言葉で、一般的な日常語ではないんです。少なくとも私の日常語ではなかった。

路地に突然現れて「出現踊り」するビビジューたち3人の存在がとても魅力的でした。彼女たちはみな湿った薄紫の衣服をまとい、不思議な歌を歌いながらタルガニたちについてきます。彼女たちはどういう存在なのでしょうか。

妖精のようですけど、生死不明です。ここでは、実際にいるかどうかはそれほど大事なことじゃないんです。「かつて居た」ということが重要です。ここでは4人で1人の役を演じているような感じですね。

これまでにも監督は、生と死の”狭間”にいる存在を描いていますね。

さまざまな物事の”中間”的なことが出てきています。生死が不明で曖昧なのもそのひとつですね。時の流れが実際の時間軸に忠実でなく。映画の約束事がきちんと守られていない。だからエンドに向かって物語が展開してゆくはずなのに、必ずしもそうはならないんです。気がついたら「…?」があるはずです。

映画の中に登場する古い8mmフィルムは、ご実家に眠っていた昔のものを使われたと聞きました。これは実際にどういう時に撮られたものだったのですか。

40年前京都の大学に通っていた頃に曖昧な気分ながら8mmフィルムを持って沖縄の風景を撮っていた、と先ほど言いましたが、その時撮影されたフィルムの一部です。高温多湿の沖縄那覇にある、実家の押入れで何十年間も蒸されていたんですね。映画に出てくるパパジョーやタルガニたちの実験室は僕の実家なんですが、あの部屋の押入れの中にねむっていたのをたまたま見つけて、これも使いましょう、ということになりまして。ああいう妙な劣化をした破損の状況だったので、あれはあれでこの映画に非常に合っているなと思いました。

時間を超えた表現というわけですね。

そうですね、もしくは「時間を蓄える」というかね。フィルム自体は破損はしているんだけど、あの中に何十年間も時間が蓄えられている。あのフィルムを見ていると、僕はそんなふうに感じるんです。そして見ている人にも感じてほしいんです。蓄えられている時間みたいなものをね。まぁそこまで深読みしなくても、「あの男は、あの後どうなったんだろう」と思えるのではないのでしょうか。

沖縄が本土復帰する以前から現代まで、あのフィルムは時間を蓄えていたんですね。

フィルムに写っているかろうじて姿が見えたりする男は米兵で、あの後ベトナム戦争に行ったと聞きましたが…。その後どうなったのか、僕にもわからない。あの映像は「オキナワン ドリーム ショー」という映画で使われなかった部分ですが、使った部分は、保存状態がよく、映像もそれなりにシャープですので2種類のフィルムを比較検討ができるのです。それ以外の破損8mmフィルムにも、僕の身内の人のものとかもありますが、もう亡くなっていたりしてるわけです。破損して実像がはっきりしない状態なんだけど、どこかフィルムの物質的なリアリテイがあるんですよ。映画の中で動いているひとたちは、もういない。映画フィルムが醸し出すアウラのようなものをひしひしと感じますね。

そんなフィルムが作品中で「生き直し」の実験で使われていることも象徴的です。

フィルムが蓄える時間というものは、確かにあると思うんだよね。あの中ではみんな生きてたわけですから。スクリーンを見たら、やっぱり生きてるんですよ。

 

『変魚路』
(2016年 / カラー / DCP / 沖縄語・日本語 / 81分)
監督・脚本:髙嶺 剛
キャスト:平良進、北村三郎、大城美佐子、川満勝弘、糸数育美、河野知美、山城芽、西村綾乃、親泊仲眞、内田周作、花井玲子、石川竜一
音楽:ARASHI(坂田明、ヨハン・バットリング、ポール・ニルセン・ラヴ) 大城美佐子 大工哲弘 嘉手苅林昌 CONDITION GREEN 北村三郎

撮影・編集・合成:髙木駿一、制作・録音:後藤聡 、助監督:砂川敦志、撮影:平田守
美術:山城知佳子、衣装:阪田清子
制作進行:宮島真一、音響:菊池信之
プロデューサー:濱治佳 、総合プロデューサー:岡本由希子
製作:『変魚路』製作委員会

2017年1月14日(土)シアター・イメージフォーラムにて公開中、2月11日(土)大阪・シネ・ヌーヴォ、2月25日(土)桜坂劇場ほか順次公開
http://www.cinematrix.jp/hengyoro/

 

[高嶺剛]
1948年沖縄の石垣島川平生まれ。
高校卒業まで那覇で過ごしたあと、国費留学生として京都教育大学特修美術科に入学。その頃から8ミリ映画を撮り始める。
ジョナス・メカスを私淑し、日本復帰前後の沖縄の風景を凝視した初長編監督作品『オキナワン ドリーム ショー』(1974)を制作する。1985年初の長編劇映画『パラダイスビュー』完成。ベルリン国際映画祭ヤングフォーラム部門をはじめ、10数カ国の映画祭に出品。
『ウンタマギルー』(1989)でベルリン国際映画祭カリガリ賞、ナント三大陸映画祭グランプリ、ハワイ国際映画祭グランプリ、日本映画監督新人賞など国内外の映画祭で多数上映、受賞し、全編沖縄語で展開される新しい表現を生みだした作家として世界的に注目される。
1996年よりジョナス・メカスの来沖がきっかけとなり生まれた『私的撮夢幻琉球 J・M』を発表。1998年には沖縄を代表する民謡歌手の大城美佐子を主演に迎え、『夢幻琉球・つるヘンリー』を市民プロデューサーシステムでデジタル撮影をいち早く取り入れて製作、東京国際映画祭、ロッテルダム国際映画祭、香港映画祭などで上映。ほかにも短編多数制作。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2003に審査員として参加、沖縄特集でも「髙嶺剛の世界」として特集される。2006年には、NYのアンソロジー・フィルム・アーカイブにて、「Dream Show: The Films of Takamine Go」レトロスペクティブが開催された。本作『変魚路』は、18年振りの劇映画作

 

 

January 31,2017

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会

©『変魚路』製作委員会