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デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督『アメリカン・スリープオーバー』レビュー

text : UMMMI.

(C)Visit Films

 

スリープオーバー、お泊まり会。こんなに面倒くさくて、同時にうっとりするこれ以上の行事がこの世に存在するのかしら。誰かの家に泊まるというのは、どんな状況であれ、どんな対象であれ、いつだってドキドキすることだ。ひとりで誰かの家に泊まりに行くのだって十分ドキドキするのに、その人数がひとりからふたり、ふたりからさんにん、と、沢山の人たちと夜を共有するその状態は、楽しくて素敵なミラクルよ起こってくれ、と思わず心で祈らずにはいられないことだろう。そしてこの完全なる青春映画『アメリカン・スリープオーバー』は、お泊まり会にまつわる幻想を、一切の撮り落としもなく120%の形で提示してくれる。

 

青春映画を観る際に重要になってくるのは、その映画を観て自分のなかの、何を思い起こしたかだ。例えば暗い青春を送った人は、愛の告白、キス(そして、あわよくばセックス)、女の子同士のケンカ、好きな子と一緒に道路に寝転んだり雨に濡れること、酔っぱらいの愉快なダンス、怪談話、空を見上げている隣の子の横顔を見つめること、いままでやったことがなかったことのないイタズラへの挑戦、そういったものが本当に存在していたのかと、嫉妬したり憧れたりするだろう。もちろん多くの人は、おそらくいま述べたことの一部しか経験していないはずだ。少なくともアタシはそう。みんながそれぞれ完全に満たされることのない状態で、記憶を捏造したり、つけ加えたりして、なんとか自分のかつてあった青春時代を作り上げていくことしか出来ない。それが、青春時代の基本的な構造になっているのかもしれない。

 

この映画の優れていることは、大人が一切出てこない代わりに、様々な年代の登場人物が出てくるところだ。13歳くらいの女の子から、もう大学生である20歳ちょっとの男の子。そして、青春は終わってしまったことを、そしてまだこれからも青春が始まる可能性があることを、自分は歳を取り過ぎてしまっていると感じている大学生の男の子に語らせる。まるで青春が終わってしまったと感じざるにはいられない鑑賞者のためにも、キラキラした青春への糸口をちらつかせてくれているようだ。青春は、とてもいい。新しい言語を自分のものにしようとしたり、身体が衰えてしまってからスポーツを真剣に始めようとすることと違って、実は、青春はみんなに開かれているからだ。たとえ歳を取っていても、お酒と少しのドキドキで夜の街を飽きずに駆け抜けることができるならば、無理に笑わなくても、怒ってしまっても、泣いてしまっても、失敗してしまっても、私たちはそれを青春と呼ぶことが出来ることを知っている。

 

冒頭で、女の子はシカゴからこの町、小さくて何もない、この町―に戻ってきた大学生の兄に質問する。「この町でなにするの?」「さあね。酒かな。」「シカゴに戻らないの?」この会話から、どうやらこの町は、人々が出て行って、もう戻ることのない閉ざされた町として描かれていることがわかる。みんなが知り合いで、スーパーで見かけて気になった女の子を捜そうとすれば、一日で見つけることの出来てしまうこの町。パーティーに行けば、よく行くプールで働いているお兄さんがいるこの町。美しくて魅惑的な、アイスクリーム屋で働く双子のいる町。(子供のときは、小学校の違うクラスの生徒や町の学習塾などで時おり双子を見かけたものだが、大人になってからめっきり双子に遭遇する機会が減ったように感じるのは、おそらく双子が一個人として様々な土地で生きることを選択してゆくからなのだろう、という当たり前のことすらこの映画は思い出させてくれる)閉ざされた町に住むやることのない若者の感覚は、青春と違って、かつてそういった状況におかれていた人にしか解らない種類の閉鎖感なのかもしれない。たわいのないパーティーや友人のお誕生日会に行くだけで、前の恋人や仲違いしたかつての親友に会わなきゃいけないような、クソったれの町。土地が、自分の歴史を全部背負ってしまって、いっぱいいっぱいになっている町。こういった町に住む/住んでいた過去というのは、どうしたって消しようもないことが、さらに過去を重たいものとさせるのだろう。町に出て恥ずかしいことをしてしまうこと、そして青春はセットで存在しており、閉ざされている町は拡散の仕様がないためだけに、青春はより密度の濃いものとなるのかもしれない。

 

『アメリカン・スリープオーバー』の舞台となっているあの小さな町、デトロイト郊外からイリノイ州シカゴを越えた隣のウィスコンシン州マディソンの郊外に、実は少しの間だけ住んでいたことがある。アタシはそのときちょうど14歳で、世界に怒っていて同時にひどく臆病だったことを覚えている。日本に戻ってきてからは狂ったように映画ばかり観ていたため映画以外の記憶がほとんど抜け落ちているのだけれど、私の青春は、あの小さな町で成されたのかもしれないと、『アメリカン・スリープオーバー』を観ることによって忘れていた記憶を思い出す。アタシはその時、同い年のアメリカ人女の子がいる家に住まわせてもらっていて、毎日その女の子と終わらないアメリカン・スリープオーバーをしていた。アメリカの田舎にある公立中学校には厳しい女の子同士の派閥があって、その女の子は東京というビックシティから来たアジア人を連れているというだけで人気になったりいじめられたりして、当の本人であるアタシよりもずっと忙しそうだった。その終わらないアメリカン・スリープオーバーで、何度か夜通し行われるホームパーティーに遊びにいったことがある。その度に、誰かがアタシのことを見つけてくれて、キスをしたり、或いはちょっと年上の人が運転する特権的な車に乗せてもらえたりしないかな、と心の中で思ったけど、いつもアタシはダメだった。きっと、アタシは全然セクシーじゃないんだろうと思いながら、ひとりで巨大なトランポリンの上に寝そべって、流れ星を見ているふりをしていた。青春なんて、こんなものだけど、優れた青春映画を観ると、忘れていた恥ずかしい記憶が蘇られずにはいられない。アメリカン・スリープオーバー。かつて起こっていたかもしれない、そしてアタシの身には起きることのなかった輝かしい青春。この劇中に出てくるような、恥ずかしいセリフを簡単に言えてしまえるならばそれはきっと愉快な人生の強みとなるだろう。「君にキスしたい。でも、ダメだ。僕には彼女がいるから。」「ねえ、息を交換したことある?目をつむって」そして二人は息を交換するの。こういった数々の恥ずかしい言葉を使うことに躊躇しなくてもいい、一夜の魔法をこの映画、アメリカン・スリープオーバーはアタシたちにかけてくれる。

 

 

 

『アメリカン・スリープオーバー』
(原題:THE MYTH OF THE AMERICAN SLEEPOVER)
2010年/97分/シネマスコープ/カラー
監督・脚本:デヴィッド・ロバート・ミッチェル(DAVID ROBERT MITCHELL)
出演:クレア・スロマ、マーロン・モートン、アマンダ・バウアー、ブレット・ジェイコブソン
2010年度カンヌ国際映画祭批評家週間ノミネート
2010年度サウス・バイ・ サウスウエスト国際映画祭 審査員特別賞 受賞

 

※グレタ・ガーウィグ主演『ハンナだけど、生きていく!』(IndieTokyo第一回配給作品:8月よりイメージフォーラム、秋ごろ京都シネマにて2週間限定上映!)公開を記念して、『アメリカン・スリープオーバー』は、アメリカ・インディペンデントの青春映画特集の一貫で上映された。近年、アメリカではデジタルを武器に登場した若い映画作家の活躍が目立っており、瑞々しい感性と躍動感、等身大でカジュアルな世界観、そして映画への愛と自由なインディペンデント精神を武器に、彼らは閉塞感の強まっていた映画界にフレッシュな新風を巻き起こしている。
池袋にある新文芸座にて新文芸座シネマテークとして、ティーンエイジャーの甘酸っぱくて美しい青春映画ど真ん中と言うべき『アメリカン・スリープオーバー』の上映、そして7月24日には、女性への愛と妄想で頭の中がパンパンな今どきの若者を監督自らが演じる、切実で感動的な『あまりにも単純化しすぎた彼女の美』が上映される。

http://indietokyo.com/?page_id=2021

 

 

 

July 23,2015

(C)Visit Films

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